チャニアーンな一日
家族と過ごすチャニアーン(極上)な一日. 平凡な日々の中からみつける極上なひと時. があればいいな〜と思いつつ
6月26日 さぁ〜
6月26日
日本のプロレス史上で記念すべき出来事が2つある。
※今日はちょっと(かなり)長文です。
1952年(昭和27年)
時は、1924年(大正13年)に遡る。力道山こと金信洛(역도산)は、朝鮮半島(現朝鮮民主主義人民共和国統治範囲)で生まれる。
長崎県大村出身の玉の海(当時小結)のタニマチであった百田己之助(後の養父)に見出され単身海峡を渡り当時:大日本相撲協会の二所ノ関部屋へ入門する。
入門後は、相撲界でも最も厳しい稽古として有名だった二所ノ関部屋で稽古に励み、順調万端に昇進していく中、太平洋戦争・終戦を経験し、朝鮮戦争勃発から2ヶ月後に大関を目前に自ら髷を落とし廃業、その後力道山のタニマチである新田新作の下で土建業の現場監督をしながら、就籍届提出、それが認められ日本人・百田光浩が誕生する(本籍:長崎県大村市二百九十六番地 百田光浩 父亡百田巳之助 母たつ)。 私の個人的解釈は、サンフランシスコ平和条約前であるため、帰化ではなく飽くまで本籍が長崎県になったと思う。
その後、1年ほど酒を飲んでは暴れる日々を送っていたが、ある日、ナイトクラブ「馬車道」でハワイ出身の日系レスラーであったハロルド坂田といざこざになったが軽々いなされ、これをきっかけにプロレスのトレーニングをするようになった。しかし、東京での親代わりであった新田新作は、プロレス転向には難色を示していた。
そんな中、1951年(昭和26年)10月28日両国メモリアル・ホールにてプロレスデビューを果たす。そして力道山は、タニマチの新田新作を口説き落とすために、興行界のドン・永田貞雄を動かし画策し、翌年の1月に新田新作を懐柔させた。永田貞雄を動かせることができた力道山の力は計り知れないものであるとつくづく痛感させれれる出来事である。
同年2月には力道山がデビューした際の対戦相手であった、ボビー・ブランズを伝にハワイへ修行に出る。ハワイでは名トレーナーとされる沖縄出身の沖識名(本名:識名盛夫)の師事を受ける。力道山は着いたその日からトレーニングを開始し、2週間後にはホノルルでのデビューを勝利で飾る。3ヶ月ほどハワイに滞在している間は無敗であった。
同年6月にはアメリカ本土に渡り、これまた到着したその日の晩には米本土第一戦を敢行する。翌年の2月に帰国するも、戦績は300戦295勝5敗、うちシングルでの負けは3敗のみ、後の2敗はタッグパートナーの負けによるもの。これは驚異的数字であり、今以て破られていないし、今後も敗れることはありえないと私は思う。
と、前置きが長くなりましたが、
1952年(昭和27年)6月26日
サンフランシスコで、レオ・ノメリーに始めての敗北を赦した。
レオ・ノメリー(ノメリーニ)は、当時アメリカン・フットボールの花形選手でもあり、プロレスでもルー・テーズの次代を担うと騒がれた選手だ。
‐昭和27年の出来事‐
・4月28日 サンフランシスコ平和条約が発効・公布。
■日本は、朝鮮の独立を認識(正文の英語では“Japan, recognizing the independence of Korea”と記されている。これをどう訳すかでかなりの相違が生じる)
■条約に基づき通達された「平和条約の発効に伴う朝鮮人台湾人等に関する国籍及び戸籍事務の処理について」いわゆる外地人の日本国籍喪失
・5月19日 白井義男が日本人で初のボクシング世界チャンピオンになる
・8月13日 日本が国際通貨基金(IMF)に加盟
・10月1日 1950年に制定された公職選挙法に基づく初の総選挙(第25回衆議院議員総選挙投票)
・11月1日 アメリカが人類初の水爆実験を実行
・4月7日 手塚治虫の「鉄腕アトム」が月刊誌「少年」に連載される
・この年に誕生した有名人
坂本龍一、三浦友和、中島みゆき、
グッチ裕三、峰竜太、奥寺康彦、
中島らも、桃井かおり、さだまさし、
夏木マリ、高橋幸宏、田丸美寿々、
小柳ルミ子、水谷豊、小池百合子
松坂慶子、池畑慎之介(ピーター)、ネルソン・ピケ
ジョニー大倉、草刈正雄、もたいまさこ、
吉幾三、浜田省吾。
さて、もうひとつのプロレスにおける出来事では、
1976年(昭和51年)6月26日
当時、試合前は世紀の一戦と謳われた
アントニオ猪木対モハメド・アリの
「格闘技世界一決定戦」
だが、試合後は「世紀の凡戦」と酷評された。
ことの発端は、1975年(昭和50年)3月に当時ボクシング世界チャンピオンだったモハメド・アリが「100万ドルの賞金を用意するが、東洋人で俺に挑戦する者はいないか?レスラーでも構わない」とリップサービスしたのに、新日本プロレスの猪木が名乗り出たのだ。
猪木はアリに挑戦状を送ったが、マスコミは到底不可能なものと冷ややかだった。
力道山の遺産は結果的に馬場が受け継いだので、猪木は死に物狂いで、この試合にかけていたのだろう。
そして、猪木の異種格闘技戦の幕が始まった。
日本のプロレス史上で記念すべき出来事が2つある。
※今日はちょっと(かなり)長文です。
1952年(昭和27年)
時は、1924年(大正13年)に遡る。力道山こと金信洛(역도산)は、朝鮮半島(現朝鮮民主主義人民共和国統治範囲)で生まれる。
長崎県大村出身の玉の海(当時小結)のタニマチであった百田己之助(後の養父)に見出され単身海峡を渡り当時:大日本相撲協会の二所ノ関部屋へ入門する。
入門後は、相撲界でも最も厳しい稽古として有名だった二所ノ関部屋で稽古に励み、順調万端に昇進していく中、太平洋戦争・終戦を経験し、朝鮮戦争勃発から2ヶ月後に大関を目前に自ら髷を落とし廃業、その後力道山のタニマチである新田新作の下で土建業の現場監督をしながら、就籍届提出、それが認められ日本人・百田光浩が誕生する(本籍:長崎県大村市二百九十六番地 百田光浩 父亡百田巳之助 母たつ)。 私の個人的解釈は、サンフランシスコ平和条約前であるため、帰化ではなく飽くまで本籍が長崎県になったと思う。
その後、1年ほど酒を飲んでは暴れる日々を送っていたが、ある日、ナイトクラブ「馬車道」でハワイ出身の日系レスラーであったハロルド坂田といざこざになったが軽々いなされ、これをきっかけにプロレスのトレーニングをするようになった。しかし、東京での親代わりであった新田新作は、プロレス転向には難色を示していた。
そんな中、1951年(昭和26年)10月28日両国メモリアル・ホールにてプロレスデビューを果たす。そして力道山は、タニマチの新田新作を口説き落とすために、興行界のドン・永田貞雄を動かし画策し、翌年の1月に新田新作を懐柔させた。永田貞雄を動かせることができた力道山の力は計り知れないものであるとつくづく痛感させれれる出来事である。
同年2月には力道山がデビューした際の対戦相手であった、ボビー・ブランズを伝にハワイへ修行に出る。ハワイでは名トレーナーとされる沖縄出身の沖識名(本名:識名盛夫)の師事を受ける。力道山は着いたその日からトレーニングを開始し、2週間後にはホノルルでのデビューを勝利で飾る。3ヶ月ほどハワイに滞在している間は無敗であった。
同年6月にはアメリカ本土に渡り、これまた到着したその日の晩には米本土第一戦を敢行する。翌年の2月に帰国するも、戦績は300戦295勝5敗、うちシングルでの負けは3敗のみ、後の2敗はタッグパートナーの負けによるもの。これは驚異的数字であり、今以て破られていないし、今後も敗れることはありえないと私は思う。
と、前置きが長くなりましたが、
1952年(昭和27年)6月26日
サンフランシスコで、レオ・ノメリーに始めての敗北を赦した。
レオ・ノメリー(ノメリーニ)は、当時アメリカン・フットボールの花形選手でもあり、プロレスでもルー・テーズの次代を担うと騒がれた選手だ。
‐昭和27年の出来事‐
・4月28日 サンフランシスコ平和条約が発効・公布。
■日本は、朝鮮の独立を認識(正文の英語では“Japan, recognizing the independence of Korea”と記されている。これをどう訳すかでかなりの相違が生じる)
■条約に基づき通達された「平和条約の発効に伴う朝鮮人台湾人等に関する国籍及び戸籍事務の処理について」いわゆる外地人の日本国籍喪失
・5月19日 白井義男が日本人で初のボクシング世界チャンピオンになる
・8月13日 日本が国際通貨基金(IMF)に加盟
・10月1日 1950年に制定された公職選挙法に基づく初の総選挙(第25回衆議院議員総選挙投票)
・11月1日 アメリカが人類初の水爆実験を実行
・4月7日 手塚治虫の「鉄腕アトム」が月刊誌「少年」に連載される
・この年に誕生した有名人
坂本龍一、三浦友和、中島みゆき、
グッチ裕三、峰竜太、奥寺康彦、
中島らも、桃井かおり、さだまさし、
夏木マリ、高橋幸宏、田丸美寿々、
小柳ルミ子、水谷豊、小池百合子
松坂慶子、池畑慎之介(ピーター)、ネルソン・ピケ
ジョニー大倉、草刈正雄、もたいまさこ、
吉幾三、浜田省吾。
さて、もうひとつのプロレスにおける出来事では、
1976年(昭和51年)6月26日
当時、試合前は世紀の一戦と謳われた
アントニオ猪木対モハメド・アリの
「格闘技世界一決定戦」
だが、試合後は「世紀の凡戦」と酷評された。
ことの発端は、1975年(昭和50年)3月に当時ボクシング世界チャンピオンだったモハメド・アリが「100万ドルの賞金を用意するが、東洋人で俺に挑戦する者はいないか?レスラーでも構わない」とリップサービスしたのに、新日本プロレスの猪木が名乗り出たのだ。
猪木はアリに挑戦状を送ったが、マスコミは到底不可能なものと冷ややかだった。
力道山の遺産は結果的に馬場が受け継いだので、猪木は死に物狂いで、この試合にかけていたのだろう。
そして、猪木の異種格闘技戦の幕が始まった。
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