チャニアーンな一日
家族と過ごすチャニアーン(極上)な一日. 平凡な日々の中からみつける極上なひと時. があればいいな〜と思いつつ
6月26日 さぁ〜
6月26日
日本のプロレス史上で記念すべき出来事が2つある。
※今日はちょっと(かなり)長文です。
1952年(昭和27年)
時は、1924年(大正13年)に遡る。力道山こと金信洛(역도산)は、朝鮮半島(現朝鮮民主主義人民共和国統治範囲)で生まれる。
長崎県大村出身の玉の海(当時小結)のタニマチであった百田己之助(後の養父)に見出され単身海峡を渡り当時:大日本相撲協会の二所ノ関部屋へ入門する。
入門後は、相撲界でも最も厳しい稽古として有名だった二所ノ関部屋で稽古に励み、順調万端に昇進していく中、太平洋戦争・終戦を経験し、朝鮮戦争勃発から2ヶ月後に大関を目前に自ら髷を落とし廃業、その後力道山のタニマチである新田新作の下で土建業の現場監督をしながら、就籍届提出、それが認められ日本人・百田光浩が誕生する(本籍:長崎県大村市二百九十六番地 百田光浩 父亡百田巳之助 母たつ)。 私の個人的解釈は、サンフランシスコ平和条約前であるため、帰化ではなく飽くまで本籍が長崎県になったと思う。
その後、1年ほど酒を飲んでは暴れる日々を送っていたが、ある日、ナイトクラブ「馬車道」でハワイ出身の日系レスラーであったハロルド坂田といざこざになったが軽々いなされ、これをきっかけにプロレスのトレーニングをするようになった。しかし、東京での親代わりであった新田新作は、プロレス転向には難色を示していた。
そんな中、1951年(昭和26年)10月28日両国メモリアル・ホールにてプロレスデビューを果たす。そして力道山は、タニマチの新田新作を口説き落とすために、興行界のドン・永田貞雄を動かし画策し、翌年の1月に新田新作を懐柔させた。永田貞雄を動かせることができた力道山の力は計り知れないものであるとつくづく痛感させれれる出来事である。
同年2月には力道山がデビューした際の対戦相手であった、ボビー・ブランズを伝にハワイへ修行に出る。ハワイでは名トレーナーとされる沖縄出身の沖識名(本名:識名盛夫)の師事を受ける。力道山は着いたその日からトレーニングを開始し、2週間後にはホノルルでのデビューを勝利で飾る。3ヶ月ほどハワイに滞在している間は無敗であった。
同年6月にはアメリカ本土に渡り、これまた到着したその日の晩には米本土第一戦を敢行する。翌年の2月に帰国するも、戦績は300戦295勝5敗、うちシングルでの負けは3敗のみ、後の2敗はタッグパートナーの負けによるもの。これは驚異的数字であり、今以て破られていないし、今後も敗れることはありえないと私は思う。
と、前置きが長くなりましたが、
1952年(昭和27年)6月26日
サンフランシスコで、レオ・ノメリーに始めての敗北を赦した。
レオ・ノメリー(ノメリーニ)は、当時アメリカン・フットボールの花形選手でもあり、プロレスでもルー・テーズの次代を担うと騒がれた選手だ。
‐昭和27年の出来事‐
・4月28日 サンフランシスコ平和条約が発効・公布。
■日本は、朝鮮の独立を認識(正文の英語では“Japan, recognizing the independence of Korea”と記されている。これをどう訳すかでかなりの相違が生じる)
■条約に基づき通達された「平和条約の発効に伴う朝鮮人台湾人等に関する国籍及び戸籍事務の処理について」いわゆる外地人の日本国籍喪失
・5月19日 白井義男が日本人で初のボクシング世界チャンピオンになる
・8月13日 日本が国際通貨基金(IMF)に加盟
・10月1日 1950年に制定された公職選挙法に基づく初の総選挙(第25回衆議院議員総選挙投票)
・11月1日 アメリカが人類初の水爆実験を実行
・4月7日 手塚治虫の「鉄腕アトム」が月刊誌「少年」に連載される
・この年に誕生した有名人
坂本龍一、三浦友和、中島みゆき、
グッチ裕三、峰竜太、奥寺康彦、
中島らも、桃井かおり、さだまさし、
夏木マリ、高橋幸宏、田丸美寿々、
小柳ルミ子、水谷豊、小池百合子
松坂慶子、池畑慎之介(ピーター)、ネルソン・ピケ
ジョニー大倉、草刈正雄、もたいまさこ、
吉幾三、浜田省吾。
さて、もうひとつのプロレスにおける出来事では、
1976年(昭和51年)6月26日
当時、試合前は世紀の一戦と謳われた
アントニオ猪木対モハメド・アリの
「格闘技世界一決定戦」
だが、試合後は「世紀の凡戦」と酷評された。
ことの発端は、1975年(昭和50年)3月に当時ボクシング世界チャンピオンだったモハメド・アリが「100万ドルの賞金を用意するが、東洋人で俺に挑戦する者はいないか?レスラーでも構わない」とリップサービスしたのに、新日本プロレスの猪木が名乗り出たのだ。
猪木はアリに挑戦状を送ったが、マスコミは到底不可能なものと冷ややかだった。
力道山の遺産は結果的に馬場が受け継いだので、猪木は死に物狂いで、この試合にかけていたのだろう。
そして、猪木の異種格闘技戦の幕が始まった。
日本のプロレス史上で記念すべき出来事が2つある。
※今日はちょっと(かなり)長文です。
1952年(昭和27年)
時は、1924年(大正13年)に遡る。力道山こと金信洛(역도산)は、朝鮮半島(現朝鮮民主主義人民共和国統治範囲)で生まれる。
長崎県大村出身の玉の海(当時小結)のタニマチであった百田己之助(後の養父)に見出され単身海峡を渡り当時:大日本相撲協会の二所ノ関部屋へ入門する。
入門後は、相撲界でも最も厳しい稽古として有名だった二所ノ関部屋で稽古に励み、順調万端に昇進していく中、太平洋戦争・終戦を経験し、朝鮮戦争勃発から2ヶ月後に大関を目前に自ら髷を落とし廃業、その後力道山のタニマチである新田新作の下で土建業の現場監督をしながら、就籍届提出、それが認められ日本人・百田光浩が誕生する(本籍:長崎県大村市二百九十六番地 百田光浩 父亡百田巳之助 母たつ)。 私の個人的解釈は、サンフランシスコ平和条約前であるため、帰化ではなく飽くまで本籍が長崎県になったと思う。
その後、1年ほど酒を飲んでは暴れる日々を送っていたが、ある日、ナイトクラブ「馬車道」でハワイ出身の日系レスラーであったハロルド坂田といざこざになったが軽々いなされ、これをきっかけにプロレスのトレーニングをするようになった。しかし、東京での親代わりであった新田新作は、プロレス転向には難色を示していた。
そんな中、1951年(昭和26年)10月28日両国メモリアル・ホールにてプロレスデビューを果たす。そして力道山は、タニマチの新田新作を口説き落とすために、興行界のドン・永田貞雄を動かし画策し、翌年の1月に新田新作を懐柔させた。永田貞雄を動かせることができた力道山の力は計り知れないものであるとつくづく痛感させれれる出来事である。
同年2月には力道山がデビューした際の対戦相手であった、ボビー・ブランズを伝にハワイへ修行に出る。ハワイでは名トレーナーとされる沖縄出身の沖識名(本名:識名盛夫)の師事を受ける。力道山は着いたその日からトレーニングを開始し、2週間後にはホノルルでのデビューを勝利で飾る。3ヶ月ほどハワイに滞在している間は無敗であった。
同年6月にはアメリカ本土に渡り、これまた到着したその日の晩には米本土第一戦を敢行する。翌年の2月に帰国するも、戦績は300戦295勝5敗、うちシングルでの負けは3敗のみ、後の2敗はタッグパートナーの負けによるもの。これは驚異的数字であり、今以て破られていないし、今後も敗れることはありえないと私は思う。
と、前置きが長くなりましたが、
1952年(昭和27年)6月26日
サンフランシスコで、レオ・ノメリーに始めての敗北を赦した。
レオ・ノメリー(ノメリーニ)は、当時アメリカン・フットボールの花形選手でもあり、プロレスでもルー・テーズの次代を担うと騒がれた選手だ。
‐昭和27年の出来事‐
・4月28日 サンフランシスコ平和条約が発効・公布。
■日本は、朝鮮の独立を認識(正文の英語では“Japan, recognizing the independence of Korea”と記されている。これをどう訳すかでかなりの相違が生じる)
■条約に基づき通達された「平和条約の発効に伴う朝鮮人台湾人等に関する国籍及び戸籍事務の処理について」いわゆる外地人の日本国籍喪失
・5月19日 白井義男が日本人で初のボクシング世界チャンピオンになる
・8月13日 日本が国際通貨基金(IMF)に加盟
・10月1日 1950年に制定された公職選挙法に基づく初の総選挙(第25回衆議院議員総選挙投票)
・11月1日 アメリカが人類初の水爆実験を実行
・4月7日 手塚治虫の「鉄腕アトム」が月刊誌「少年」に連載される
・この年に誕生した有名人
坂本龍一、三浦友和、中島みゆき、
グッチ裕三、峰竜太、奥寺康彦、
中島らも、桃井かおり、さだまさし、
夏木マリ、高橋幸宏、田丸美寿々、
小柳ルミ子、水谷豊、小池百合子
松坂慶子、池畑慎之介(ピーター)、ネルソン・ピケ
ジョニー大倉、草刈正雄、もたいまさこ、
吉幾三、浜田省吾。
さて、もうひとつのプロレスにおける出来事では、
1976年(昭和51年)6月26日
当時、試合前は世紀の一戦と謳われた
アントニオ猪木対モハメド・アリの
「格闘技世界一決定戦」
だが、試合後は「世紀の凡戦」と酷評された。
ことの発端は、1975年(昭和50年)3月に当時ボクシング世界チャンピオンだったモハメド・アリが「100万ドルの賞金を用意するが、東洋人で俺に挑戦する者はいないか?レスラーでも構わない」とリップサービスしたのに、新日本プロレスの猪木が名乗り出たのだ。
猪木はアリに挑戦状を送ったが、マスコミは到底不可能なものと冷ややかだった。
力道山の遺産は結果的に馬場が受け継いだので、猪木は死に物狂いで、この試合にかけていたのだろう。
そして、猪木の異種格闘技戦の幕が始まった。
力道山 挙式
時は、昭和38年(1963年) 6月5日
大安吉日
ホテル・オークラの平安の間にて、力道山と元日航スチュワーデス田中敬子さん(21)の披露宴が盛大に開かれた。
※敬子未亡人は、百田の姓から抜け現在は田中に戻っている。
婚約したのが、前年の暮れ押し迫る12/30、電撃発表は年を明けて1/7に報道陣を集め発表された。
翌日(1/8)から、何故か身内にも極秘で韓国を訪問、国賓級待遇を受ける。
※韓国では、一昨年1961/5/16軍事クーデターにより、朴正煕政権が誕生していた。
※また、前年には千葉県海上町の加瀬テル子さん=当時(17)=が失踪しており、現在「拉致被害者認定」を目指す「加瀬テル子を支援する会」が発足して活動中。外務省は後に、認定者意外での調査名簿(4名)に加瀬テル子さんの氏名について言及したそうだが、認定者でないため、北朝鮮は「入境の確認ができなかった」の一言で片付け、外務省も認定者ではないため、それ以上確認していないとのこと(悲しい事実だ…)。
力道山は心の底から、祖国統一を願っていたからこそ、韓国へ訪問したんだと思う。
おっと、寄り道がすぎたようで…
新郎側の媒酌人として時の自民党副総裁:大野伴睦夫妻がつとめ、新妻側として京都府選出参議院議員:井上清一夫妻が務めた。
賓客は3,000人!!!
前年秋には、力道山が怪我のため欠場する事態。
身体中ぼろぼろになっていたが、国民はそれを許さなかった。
披露宴後、二人は世界旅行に出発したとさ。
大安吉日
ホテル・オークラの平安の間にて、力道山と元日航スチュワーデス田中敬子さん(21)の披露宴が盛大に開かれた。
※敬子未亡人は、百田の姓から抜け現在は田中に戻っている。
婚約したのが、前年の暮れ押し迫る12/30、電撃発表は年を明けて1/7に報道陣を集め発表された。
翌日(1/8)から、何故か身内にも極秘で韓国を訪問、国賓級待遇を受ける。
※韓国では、一昨年1961/5/16軍事クーデターにより、朴正煕政権が誕生していた。
※また、前年には千葉県海上町の加瀬テル子さん=当時(17)=が失踪しており、現在「拉致被害者認定」を目指す「加瀬テル子を支援する会」が発足して活動中。外務省は後に、認定者意外での調査名簿(4名)に加瀬テル子さんの氏名について言及したそうだが、認定者でないため、北朝鮮は「入境の確認ができなかった」の一言で片付け、外務省も認定者ではないため、それ以上確認していないとのこと(悲しい事実だ…)。
力道山は心の底から、祖国統一を願っていたからこそ、韓国へ訪問したんだと思う。
おっと、寄り道がすぎたようで…
新郎側の媒酌人として時の自民党副総裁:大野伴睦夫妻がつとめ、新妻側として京都府選出参議院議員:井上清一夫妻が務めた。
賓客は3,000人!!!
政界からは、河野一郎氏、川島正次郎氏(三代目プロレスコミッショナー)ら、
財界からは、大映社長・永田雅一氏ら、
映画俳優、三船敏郎、森繁久弥、鶴田浩二ら、
歌手、春日八郎、田端義夫、村田英雄、江利チエミ、
角界から、大鵬ら、
野球界からは、東映・水原監督、
ボクシング界から、白井義男・・・
参考:『夫・力道山の慟哭 ― 没後40年 未亡人が初めて明かす衝撃秘話』田中 敬子著
前年秋には、力道山が怪我のため欠場する事態。
身体中ぼろぼろになっていたが、国民はそれを許さなかった。
披露宴後、二人は世界旅行に出発したとさ。
5月24日 今日は何の日?
5月24日
■1950年5月24日
力道山「保険放火容疑で力道山を取調べ」
業経済新聞6/14付朝刊
力道山が自ら髷を落とし力士を廃業したのがこの年の8月。
廃業後は、タニマチだった新田新作の下で土建業を手伝っていたようだが、
その稼いだ金は全て酒に消えていたそうだ。
兎に角、呑めば暴れるので有名だったそうで、飲酒運転で尋問されても
「オレを誰だと思ってるんだ!天下の力道山だぞ!」
で顔パスだった、そんな時代だった。
この頃はまだ、朝鮮半島から来た人の中で、強盗など犯罪を犯すものがいて
警察から目をつけられていたそんな時代だ。
■1963年(昭和38年)5月24日
WWA世界ヘビー級選手権試合(東京・東京体育館)
チャンピオン:フレッドブラッシー VS 挑戦者:力道山
日本初の『テキサス・デスマッチ・ルール』(3カウントルールではなく、KO又はTKOのみ)
テレビ視聴率:当時最高の64.0%!!!
※現在歴代4位
(ビデオ・リサーチ社調べ)
『ごくせん』の倍以上だぁ〜!
WWA世界ヘビー級選手権は初代チャンピオンがフレッド・ブラッシーであった。
この前年(1962年‐昭和37年)3月28日、敵地ロサンゼルス・オーデトリアムにて対戦し、
力道山が勝利=第2代チャンピオンとなる。
また、同年4月23日東京千駄ヶ谷の東京体育館でリターンマッチが行われた。
このときの中継で、一度に6人の老人がショック死して物議をよんだ。
(これをきっかけに、プロレス賛否論および中継の自粛が厳しくなっった)
同年7月26日 敵地ロサンゼルスで防衛戦を行うが、アウェーの洗礼を受け防衛は果たせなかった。
この年6月5日には、ホテル・オークラので挙式が控えていた。
(だからなんだといわれても…、次回書き忘れそうだから)
ちなみに1963年の出来事といえば、
年末に米現役大統領J・F・ケネディ暗殺事件であろう。
が、しかーし、各紙が当然トップ記事にしていたが、
東京スポーツ新聞は、『ブラッシー血だるま』が一面トップ記事だったのは本当?
■1950年5月24日
力道山「保険放火容疑で力道山を取調べ」
業経済新聞6/14付朝刊
力道山が自ら髷を落とし力士を廃業したのがこの年の8月。
廃業後は、タニマチだった新田新作の下で土建業を手伝っていたようだが、
その稼いだ金は全て酒に消えていたそうだ。
兎に角、呑めば暴れるので有名だったそうで、飲酒運転で尋問されても
「オレを誰だと思ってるんだ!天下の力道山だぞ!」
で顔パスだった、そんな時代だった。
この頃はまだ、朝鮮半島から来た人の中で、強盗など犯罪を犯すものがいて
警察から目をつけられていたそんな時代だ。
■1963年(昭和38年)5月24日
WWA世界ヘビー級選手権試合(東京・東京体育館)
チャンピオン:フレッドブラッシー VS 挑戦者:力道山
日本初の『テキサス・デスマッチ・ルール』(3カウントルールではなく、KO又はTKOのみ)
テレビ視聴率:当時最高の64.0%!!!
※現在歴代4位
(ビデオ・リサーチ社調べ)『ごくせん』の倍以上だぁ〜!
WWA世界ヘビー級選手権は初代チャンピオンがフレッド・ブラッシーであった。
この前年(1962年‐昭和37年)3月28日、敵地ロサンゼルス・オーデトリアムにて対戦し、
力道山が勝利=第2代チャンピオンとなる。
また、同年4月23日東京千駄ヶ谷の東京体育館でリターンマッチが行われた。
このときの中継で、一度に6人の老人がショック死して物議をよんだ。
(これをきっかけに、プロレス賛否論および中継の自粛が厳しくなっった)
同年7月26日 敵地ロサンゼルスで防衛戦を行うが、アウェーの洗礼を受け防衛は果たせなかった。
この年6月5日には、ホテル・オークラので挙式が控えていた。
(だからなんだといわれても…、次回書き忘れそうだから)
ちなみに1963年の出来事といえば、
年末に米現役大統領J・F・ケネディ暗殺事件であろう。
が、しかーし、各紙が当然トップ記事にしていたが、
東京スポーツ新聞は、『ブラッシー血だるま』が一面トップ記事だったのは本当?
第一回ワールド・リーグ戦開幕(1959)
1959年(昭和34年)5月21日 今日は何の日?/出来事
■プロレス 第一回ワールド・リーグ戦開幕
昭和29年に突如現れた力道山・プロレスブームも、
木村政彦との日本一決定戦(日本ヘビー級選手権)前後の八百長説から
しばらく力道山が海外(世界)遠征に出て不在も多く、プロレスブームに
日陰がさしてきた中、力道山の起死回生の興行:全世界から強豪を集め
リーグ戦による世界一を決めるシリーズを始めた日。
この興行が大成功に終わり、プロレスブームが復活した。
ちなみに、この年の出来事は、
■4/10 皇太子様御成婚 パレードに53万人
■8/13 在日朝鮮人の帰還に関する日朝赤十字協定の締結
■12/14 北朝鮮への帰国事業の最初の帰国船が新潟港から出航
こんなのつくっていて、ブログサボってました・・・
相撲部屋一覧
出羽海一門
出羽海部屋
〒130-0026 東京都墨田区両国2-3-15
MAP》
春日野部屋
〒130-0026 東京都墨田区両国1-7-11
MAP》
北の湖部屋
〒135-0024 東京都江東区清澄2-10-11
MAP》
玉ノ井部屋
〒123-0841 東京都足立区西新井4-1
MAP》
武蔵川部屋
〒116-0014 東京都荒川区東日暮里4-27-1
MAP》
三保ヶ関部屋
〒130-0025 東京都墨田区千歳3-2-12
MAP》
入間川部屋
〒338-0006 埼玉県さいたま市中央区八王子3-32-12
MAP》
境川部屋
〒121-0831 東京都足立区舎人4-3-16
MAP》
田子ノ浦部屋
〒136-0073 東京都江東区北砂7-9-1
MAP》
木瀬部屋
〒130-0023 東京都墨田区立川1-16-8
MAP》
千賀ノ浦部屋
〒111-0023 東京都台東区橋場1-16-5
MAP》
尾上部屋
〒146-0082 東京都大田区池上8-11-12
MAP》
二所ノ関一門
佐渡ヶ嶽部屋
〒270-2215 千葉県松戸市串崎南町39
MAP》
放駒部屋
〒166-0004 東京都杉並区阿佐谷南3-12-7
MAP》
二所ノ関部屋
〒130-0026 東京都墨田区両国4-17-1
MAP》
片男波部屋
〒130-0011 東京都墨田区石原1-33-9
MAP》
峰崎部屋
〒179-0073 東京都練馬区田柄2-20-3
MAP》
間垣部屋
〒130-0014 東京都墨田区亀沢3-8-1
MAP》
鳴戸部屋
〒270-0023 千葉県松戸市八ヶ崎8-14-7
MAP》
尾車部屋
〒135-0024 東京都江東区清澄2-15-5
MAP》
松ヶ根部屋
〒273-0037 千葉県船橋市古作4-13-1
MAP》
花籠部屋
〒130-0021 東京都墨田区緑3-21-10
MAP》
荒磯部屋
〒186-0011 東京都国立市谷保9562-2
MAP》
阿武松部屋
〒275-0014 千葉県習志野市鷺沼5-15-14
MAP》
芝田山部屋
〒168-0072 東京都杉並区高井戸東2-26-9
MAP》
大嶽部屋
〒135-0024 東京都江東区清澄2-8-3
MAP》
貴乃花部屋
〒164-0012 東京都中野区本町3-10-6
MAP》
ちなみに、あと 高砂一門、時津風一門、立浪一門、無所属 と半分以上のこってる…
相撲部屋一覧は「オーガスの窓」で見れます。
■プロレス 第一回ワールド・リーグ戦開幕
昭和29年に突如現れた力道山・プロレスブームも、
木村政彦との日本一決定戦(日本ヘビー級選手権)前後の八百長説から
しばらく力道山が海外(世界)遠征に出て不在も多く、プロレスブームに
日陰がさしてきた中、力道山の起死回生の興行:全世界から強豪を集め
リーグ戦による世界一を決めるシリーズを始めた日。
この興行が大成功に終わり、プロレスブームが復活した。
ちなみに、この年の出来事は、
■4/10 皇太子様御成婚 パレードに53万人
■8/13 在日朝鮮人の帰還に関する日朝赤十字協定の締結
■12/14 北朝鮮への帰国事業の最初の帰国船が新潟港から出航
こんなのつくっていて、ブログサボってました・・・
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出羽海一門
出羽海部屋
〒130-0026 東京都墨田区両国2-3-15
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〒130-0026 東京都墨田区両国1-7-11
北の湖部屋
〒135-0024 東京都江東区清澄2-10-11
玉ノ井部屋
〒123-0841 東京都足立区西新井4-1
武蔵川部屋
〒116-0014 東京都荒川区東日暮里4-27-1
三保ヶ関部屋
〒130-0025 東京都墨田区千歳3-2-12
入間川部屋
〒338-0006 埼玉県さいたま市中央区八王子3-32-12
境川部屋
〒121-0831 東京都足立区舎人4-3-16
田子ノ浦部屋
〒136-0073 東京都江東区北砂7-9-1
木瀬部屋
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千賀ノ浦部屋
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尾上部屋
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二所ノ関一門
佐渡ヶ嶽部屋
〒270-2215 千葉県松戸市串崎南町39
放駒部屋
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二所ノ関部屋
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間垣部屋
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鳴戸部屋
〒270-0023 千葉県松戸市八ヶ崎8-14-7
尾車部屋
〒135-0024 東京都江東区清澄2-15-5
松ヶ根部屋
〒273-0037 千葉県船橋市古作4-13-1
花籠部屋
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荒磯部屋
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阿武松部屋
〒275-0014 千葉県習志野市鷺沼5-15-14
芝田山部屋
〒168-0072 東京都杉並区高井戸東2-26-9
大嶽部屋
〒135-0024 東京都江東区清澄2-8-3
貴乃花部屋
〒164-0012 東京都中野区本町3-10-6
ちなみに、あと 高砂一門、時津風一門、立浪一門、無所属 と半分以上のこってる…
相撲部屋一覧は「オーガスの窓」で見れます。

金村光浩 大相撲新弟子検査合格の日
日本相撲協会の資料(相撲博物館)によると、
本名:金信格 百田光浩
力士名:力道山 光浩
出身地: 朝鮮 長崎県大村
とあるらしい…(『力道山―大相撲・プロレス・ウラ社会』
) (“信格”は“信洛”の誤植)
そうです、昭和(戦後)のヒーローで、天皇の次に有名な人物として名を馳せた、あの力道山と同一人物である。
金信洛が海峡を渡ったのが、昭和15年の冬。
二所ノ関部屋に入門したのが、同年4月。
そして、相撲協会の新弟子検査が行われたのが、
1940年(昭和15年)5月6日。
二所ノ関部屋でのあだ名は“キム”。
当時朝鮮半島は、日本支配下にあり朝鮮半島出身の力士が日本人として居た時代である。
ちなみに、初代若乃花(当時は若乃花 勝治)が入門したのが二所ノ関部屋であり、力道山の弟弟子にあたる。
力道山は日本大相撲力士としてデビューしてから、
太平洋戦争勃発
終戦
朝鮮戦争勃発
を経験し、力士廃業後プロレスラーに転身するわけだが、
ちなみに、力道山が力士を廃業した翌年には、親方であった玉の海親方も廃業している。理由は相撲協会の冷遇さに嫌気をさしたといわれている。
おまけ
今日は何の日? 5月6日
■ゴムの日
語呂合わせ。誰が制定したか不明。
■コンドームの日
ゴムの語呂合わせを発展させて、チャニアーンが勝手に制定。
正しく使いましょう
本名:金信格 百田光浩
力士名:力道山 光浩
出身地: 朝鮮 長崎県大村
とあるらしい…(『力道山―大相撲・プロレス・ウラ社会』
) (“信格”は“信洛”の誤植)そうです、昭和(戦後)のヒーローで、天皇の次に有名な人物として名を馳せた、あの力道山と同一人物である。
金信洛が海峡を渡ったのが、昭和15年の冬。
二所ノ関部屋に入門したのが、同年4月。
そして、相撲協会の新弟子検査が行われたのが、
1940年(昭和15年)5月6日。
二所ノ関部屋でのあだ名は“キム”。
当時朝鮮半島は、日本支配下にあり朝鮮半島出身の力士が日本人として居た時代である。
ちなみに、初代若乃花(当時は若乃花 勝治)が入門したのが二所ノ関部屋であり、力道山の弟弟子にあたる。
力道山は日本大相撲力士としてデビューしてから、
太平洋戦争勃発
終戦
朝鮮戦争勃発
を経験し、力士廃業後プロレスラーに転身するわけだが、
ちなみに、力道山が力士を廃業した翌年には、親方であった玉の海親方も廃業している。理由は相撲協会の冷遇さに嫌気をさしたといわれている。
おまけ
今日は何の日? 5月6日
■ゴムの日
語呂合わせ。誰が制定したか不明。
■コンドームの日
ゴムの語呂合わせを発展させて、チャニアーンが勝手に制定。
正しく使いましょう
4月30日 今日は何の日?
1957年(昭和32年)4月30日
力道山がNWA世界戦開催契約に調印
時は遡ること6年前に、力道山が始めてプロレスのリンクにのぼり静かなデビュー、そしてその翌年米修行に出発し1年間本場のプロレスを体得した。その遠征では300戦295勝5敗うち力道山本人が負けたのはシングルの3敗のみという、驚異的数字が物語るように、物価ブッカーとしての才能も見え隠れする。 このときの世界チャンピオンだったのが、不敗の王者ルー・テーズであった。 このころから力道山はどうしても日本に呼んで朝鮮挑戦し勝つことを夢見ていた。(第1回目の遠征帰国が1953(S28)/02/07)
帰国するとすぐに大物政治家や興行主(ヤクザ)と接触し、プロレス関係会社をいくつも設立した。
その年の10月には2回目の遠征に出発。なんとそこでは、ハワイでルーテーズを招聘してNWA王座挑戦権をかけたトーナメントが開かれた(画策した)。力道山はまたとないチャンスを導いて、自力優勝し挑戦権を獲得し、12月に挑んだ戦いは見事なバックドロップに失神KO負け。そして翌年2月に帰国。しかし、力道山はただ負けて帰ってきたわけではなかった。NWAの日本プロモート権とあのシャープ兄弟を土産に連れて帰ってきたのだ。(あっ、実際には、力道山は1954(S29)/2/12、シャープ兄弟が日本の土を踏んだのは同年2/17です)
1954年(昭和29年)シャープ兄弟を引き連れて凱旋帰国(ここでは日本人としてあつかう…)し、プロレスブームに火をつけた。
同年早くもシャープ兄弟を迎え撃った仲間?だったはずの木村政彦が、力道山を挑発し「全日本チャンピオンベルト」をかけて闘うことになった。
んで、その翌年(1955年‐昭和30年)の3月から7月まで3回目の渡米(このときは、相撲時代のタニマチが差し向けた元横綱の東富士を帯同:相撲時代は力道山のほうが格下だったが…)。
帰国後すぐにルー・テーズから「世界戦挑戦を受諾する」と入電がはいった。(1955/07/15)
それから約2年後の1957年(昭和32年)4月30日、アメリカで世界戦を日本で開催することに対して調印に成功。(先に、ハワイで一度挑戦したと書きましたが、ルーテーズがアメリカ本土を離れて選手権をかけたこと事態が始めてのことであり、プロモーターが力道山の熱意をうけとり実現させたものだったのです)
さて、試合の行方は?
力道山がNWA世界戦開催契約に調印
時は遡ること6年前に、力道山が始めてプロレスのリンクにのぼり静かなデビュー、そしてその翌年米修行に出発し1年間本場のプロレスを体得した。その遠征では300戦295勝5敗うち力道山本人が負けたのはシングルの3敗のみという、驚異的数字が物語るように、
帰国するとすぐに大物政治家や興行主(ヤクザ)と接触し、プロレス関係会社をいくつも設立した。
その年の10月には2回目の遠征に出発。なんとそこでは、ハワイでルーテーズを招聘してNWA王座挑戦権をかけたトーナメントが開かれた(画策した)。力道山はまたとないチャンスを導いて、自力優勝し挑戦権を獲得し、12月に挑んだ戦いは見事なバックドロップに失神KO負け。そして翌年2月に帰国。しかし、力道山はただ負けて帰ってきたわけではなかった。NWAの日本プロモート権とあのシャープ兄弟を土産に連れて帰ってきたのだ。(あっ、実際には、力道山は1954(S29)/2/12、シャープ兄弟が日本の土を踏んだのは同年2/17です)
1954年(昭和29年)シャープ兄弟を引き連れて凱旋帰国(ここでは日本人としてあつかう…)し、プロレスブームに火をつけた。
同年早くもシャープ兄弟を迎え撃った仲間?だったはずの木村政彦が、力道山を挑発し「全日本チャンピオンベルト」をかけて闘うことになった。
んで、その翌年(1955年‐昭和30年)の3月から7月まで3回目の渡米(このときは、相撲時代のタニマチが差し向けた元横綱の東富士を帯同:相撲時代は力道山のほうが格下だったが…)。
帰国後すぐにルー・テーズから「世界戦挑戦を受諾する」と入電がはいった。(1955/07/15)
それから約2年後の1957年(昭和32年)4月30日、アメリカで世界戦を日本で開催することに対して調印に成功。(先に、ハワイで一度挑戦したと書きましたが、ルーテーズがアメリカ本土を離れて選手権をかけたこと事態が始めてのことであり、プロモーターが力道山の熱意をうけとり実現させたものだったのです)
さて、試合の行方は?
...つづく
WWA認定世界ヘビー級選手権取得
ひさしぶりの力道山ネタ(まいど…)
1962年(昭和37年)3月28日
敵地米国ロサンゼルス・オリンピック・オーデトリアムにて
チャンピオン:フレッド・ブラッシーに挑戦し、見事勝利を勝ち取り
二代目WWAチャンピオンとなる。
しかし、その後東京でリターンマッチを行ったところ、噛みつきブラッシーが力道山の額に噛みつき流血したシーンをテレビで見ていた老人が6人もの死者が出た。
これ以前にもショック死は出ていたが、これを期にプロレスのテレビ中継規制が始まった。
また、同年7月26日にまたしても敵地ロサンゼルスでフレッド・ブラッシーのリターン・マッチを受けた力道山が3本勝負の2本めに出血多量で不可解なレフェリー・ストップ負け。3本めは“試合放棄”の判定でWWA世界ヘビー級王座を失う。敵地での防衛はならなかった。
1962年(昭和37年)3月28日
敵地米国ロサンゼルス・オリンピック・オーデトリアムにて
チャンピオン:フレッド・ブラッシーに挑戦し、見事勝利を勝ち取り
二代目WWAチャンピオンとなる。
しかし、その後東京でリターンマッチを行ったところ、噛みつきブラッシーが力道山の額に噛みつき流血したシーンをテレビで見ていた老人が6人もの死者が出た。
これ以前にもショック死は出ていたが、これを期にプロレスのテレビ中継規制が始まった。
また、同年7月26日にまたしても敵地ロサンゼルスでフレッド・ブラッシーのリターン・マッチを受けた力道山が3本勝負の2本めに出血多量で不可解なレフェリー・ストップ負け。3本めは“試合放棄”の判定でWWA世界ヘビー級王座を失う。敵地での防衛はならなかった。
3月17日 黒タイツ誕生
ひさびさの力道山ネタ
1952年(昭和27年) 今から56年前 終戦から約7年 の2月3日に
力道山は単身アメリカ(ハワイ)に修行に出る。
同じ故郷をなくした沖縄県出身の沖識名にトレーニングをつけてもらい
約2週間後にはホノルルでデビュー戦を勝利で飾る。
それまでは、普通のショートパンツで試合をしていた。
それから1ヵ月後、沖コーチのアドバイスで、黒のロングタイツを履くようになった。
このころは連勝街道をすすんでいて、メインイベントかサブに出ている頃で、コーチが
足の短い力道山を強そうに見せるための作戦だったようだ。
相手はアル・コステロ戦(シビック・オーデトリアム)。
一説では、相撲の修行時代に、初代若乃花が弟弟子で稽古をつけてもらっている
最中に、あまりの苦しさに、苦し紛れになんと力道山の腿をかじり、その葉型が
のこっていて、それを隠すためとの噂もあったが、その理由はプロレス界では
ありえないと思っている。ただ、キズがあるのは事実のようだ。
ps.ちなみに、ここまでは無敗を続けている。
話は少しばかり遡るが、
同年(昭和27年)3月14日には、キラー・デービスを組み初のタイトル(ハワイ・タッグ王座)
奪取している。ちなみに対戦相手は、師ではるボビー・ブランズ、ラッキーシモノビッチ
だった。
1952年(昭和27年) 今から56年前 終戦から約7年 の2月3日に
力道山は単身アメリカ(ハワイ)に修行に出る。
同じ故郷をなくした沖縄県出身の沖識名にトレーニングをつけてもらい
約2週間後にはホノルルでデビュー戦を勝利で飾る。
それまでは、普通のショートパンツで試合をしていた。
それから1ヵ月後、沖コーチのアドバイスで、黒のロングタイツを履くようになった。
このころは連勝街道をすすんでいて、メインイベントかサブに出ている頃で、コーチが
足の短い力道山を強そうに見せるための作戦だったようだ。
相手はアル・コステロ戦(シビック・オーデトリアム)。
一説では、相撲の修行時代に、初代若乃花が弟弟子で稽古をつけてもらっている
最中に、あまりの苦しさに、苦し紛れになんと力道山の腿をかじり、その葉型が
のこっていて、それを隠すためとの噂もあったが、その理由はプロレス界では
ありえないと思っている。ただ、キズがあるのは事実のようだ。
ps.ちなみに、ここまでは無敗を続けている。
話は少しばかり遡るが、
同年(昭和27年)3月14日には、キラー・デービスを組み初のタイトル(ハワイ・タッグ王座)
奪取している。ちなみに対戦相手は、師ではるボビー・ブランズ、ラッキーシモノビッチ
だった。
今日は『プロレスの日』
1955年(昭和30年)2月19日
■プロレスの日
この日から3日間連続で、蔵前国技館にて国際試合をうった。
メインとなるのは、NWA世界タッグチャンピオンのシャープ兄弟(
前の記事)、に迎え撃つのは、力道山と柔道家の木村政彦(おまけに同じく柔道あがりの遠藤幸吉)である。
初日の国際試合は、NHKと日本テレビが二元中継をしている。(NHKは初日だけ)
ここで正力松太郎の戦略とプロレスがドンピシャあたり、東京・新橋駅前西口広場の街頭テレビには2万人の群集があつまったとか。
2日目からは、テレビを見た人たちが会場の蔵前国技館に殺到したそうだ。
力道山のすごいところは、テレビとの連携も然る事ながら、最前列は勿論高いが、一般労働者でも入場できるチケット枠もきちんと用意して実際に見てもらう作戦を実行したことだ。
(04:14)
◆力道山(百田光浩)の就籍届提出が受理された。
力道山は、エキビションマッチでプロレスデビューをする前年の1950年(昭和25年)11月に就籍届(※)を提出している。 年明けの1951年2月18日に受理された。 晴れて、朝鮮の肩書きを消し去り、日本人として生きることとなる。(ふるさとが朝鮮なだけ)
(※)就籍届(しゅうせきとどけ):何らかの理由で戸籍がない者が、新しく戸籍を作るがめの届出。
■プロレスの日
この日から3日間連続で、蔵前国技館にて国際試合をうった。
メインとなるのは、NWA世界タッグチャンピオンのシャープ兄弟(
前の記事)、に迎え撃つのは、力道山と柔道家の木村政彦(おまけに同じく柔道あがりの遠藤幸吉)である。初日の国際試合は、NHKと日本テレビが二元中継をしている。(NHKは初日だけ)
ここで正力松太郎の戦略とプロレスがドンピシャあたり、東京・新橋駅前西口広場の街頭テレビには2万人の群集があつまったとか。
2日目からは、テレビを見た人たちが会場の蔵前国技館に殺到したそうだ。
力道山のすごいところは、テレビとの連携も然る事ながら、最前列は勿論高いが、一般労働者でも入場できるチケット枠もきちんと用意して実際に見てもらう作戦を実行したことだ。
(04:14)
◆力道山(百田光浩)の就籍届提出が受理された。
力道山は、エキビションマッチでプロレスデビューをする前年の1950年(昭和25年)11月に就籍届(※)を提出している。 年明けの1951年2月18日に受理された。 晴れて、朝鮮の肩書きを消し去り、日本人として生きることとなる。(ふるさとが朝鮮なだけ)
(※)就籍届(しゅうせきとどけ):何らかの理由で戸籍がない者が、新しく戸籍を作るがめの届出。
続く・1954年(昭和29年)2月17日 シャープ兄弟来日
前年、1953年(昭和28年)2月7日 力道山 第一回渡米より帰国してから、力道山は道場の設立と日本プロレスリング協会を旗揚げした。
その頃世間では、正力松太郎のツルの一声で、都心の人が集まりそうなところに、無料で街頭テレビを都内だけど29件設置した。
それから8月には、民間では始めてのテレビ放送を開始した。
力道山は秋に2度目の渡米をしている。目的は3つ。
・ルーテーズを倒すこと
・日本でのプロモート権を獲得するため
・外貨獲得
一つ目の挑戦は完敗に終わる。
ただもうひとつの権利は難なくもらってきた。
力道山は、プロレスほどテレビにあったスポーツはないと確信していた。
また、テレビで見るプロレスの魅力はタッグマッチにあることも。
日本に帰った力道山は、当時NWA世界タッグ選手権保持者のシャープ兄弟の白羽の矢を立てた。

ベン マイク
その頃世間では、正力松太郎のツルの一声で、都心の人が集まりそうなところに、無料で街頭テレビを都内だけど29件設置した。
それから8月には、民間では始めてのテレビ放送を開始した。
力道山は秋に2度目の渡米をしている。目的は3つ。
・ルーテーズを倒すこと
・日本でのプロモート権を獲得するため
・外貨獲得
一つ目の挑戦は完敗に終わる。
ただもうひとつの権利は難なくもらってきた。
力道山は、プロレスほどテレビにあったスポーツはないと確信していた。
また、テレビで見るプロレスの魅力はタッグマッチにあることも。
日本に帰った力道山は、当時NWA世界タッグ選手権保持者のシャープ兄弟の白羽の矢を立てた。

ベン マイク

っとお願い!





































